創作で人生を変えられない

 この漫画、映画で人生を変えられました!衝撃を受けました!…という感想を目にすることがある。その度にいやいや、言い過ぎだろ。と思うし、そうとしか思えない自分に少し焦る。今まで自分は漫画とか映画とか、誰かの言葉に人生を変えられたことなんてほぼ無い。

 所詮は他人の言葉じゃんとも毒づきたくなる一方で自分の感受性が乾ききっているのだろうとはわかっているので閉口することになってしまう。

これは他人をバカにするのではなく、羨ましくて焦っているのだ。

一応創作に関わってきた人間としてこれはいかがなものか…と悩んでいた。それでも最近はそれに整理がついてきた。

 

 音楽はあまり幅広く聴かない。狭く深く聴いていくタイプだ。

なので昔から特定のアーティストだけを好んでいる。その中の一人がピノキオピーだ。ポップなサウンドとは裏腹の皮肉の効いた歌詞が特徴だ。(この文では拾いきれてない良さがかなりあるが、本題ではないのでニュースサイトの末尾でされてそうな説明程度に留めておく)私はこの人の歌詞が特に好きなのだが、知りたての小学生の時の自分にとってはそんなことはどうでもよかった。歌詞の意味はよくわからないのでただキャッチーな音楽だけを楽しんでいた。

 そして成長していくとともに次第に意味が理解できるようになる。いつものように聴いていたら、「あれ、これってこういうことだったのか!」と判明する。自分の考えと歌詞の一部がゾッとするほどリンクするような感覚。

そんなことが起きたのは自分が理解に至るまでにいろいろな経験をしていたからだ。曲の歌詞とともに少し前の自分を客観視しただけのことにすぎない。

 創ることもそれを受け止めることも、自分の中にないものは反応しないのだ。

だから、創作に人生を変えられなくてもいいのだと思う。いや、映画を観てあまりの衝撃に思わず叫びたくなるような経験を否定してるのではない。

私が言いたいのはそんな大きな衝撃に期待をする必要がないんじゃないかということ。さっきの曲の例のように、なにか作品を見て、その真の意味に気がつくのが数年後だっていいのだ。

その意味がわかる頃には作品のメッセージなんて不要になっているかもしれないが、自分の中で何かが積み上がった数年間は決して無駄ではないのだ。

人生は変えられなくとも、人生が変わったことに気が付くきっかけとして、創作があると考えてもいいのではないだろうか。

きみいき

君たちはどう生きるか、をちょっと前に観た。友達と感想を言い合う時に自分が全く言語化できていなかったので、それをするための記事。

内容は難しかった、ので半分くらいよく分からずに書いているし、内容はまとまりのないものになっている。箇条書みたいな短文の寄せ集めで進行する。

 

・どういう話だったのか、といえば「憧れと現実」…みたいな。憧れというよりは空想という方が適切かもしれない。エンドロール中にどういう話だったか考えての結論。自分が最近興味のあるテーマだったので結構ピンときた。それとも興味があったために内容が捻じ曲がっただけかもしれない。

・大叔父は悪意のない石だけを集めて自分の理想の世界を創った。ただ、それをキレイなままに保つことは困難で、あのめちゃ怖いインコがその世界を食い潰して不安定にしていった。これは大叔父自身が純粋ではない悪意の混じった存在だったからではないのだろうか。

・奴は真人にその役割を受け渡そうとしたけど、眞人は断った。自分が悪意のない存在ではないことを自覚していたから。

・この時に鍵となるのが頭の傷だった。観ながら、どうして眞人くんはあんなことを…とずっと思ってた。多分、新しい学校に行きたくなかったからなんだろう。いじめられてたし。

・それがなんで悪意の傷なのかというと、その傷が周りの人に予想以上の迷惑をかけたり、父親が自分のために奔走してくれたり…(あの行動は過剰すぎて眞人も嫌そうだったけどでも優しさなのは理解してたと思う)。そこで自分の浅はかさみたいなものを痛いほど自覚したから、その傷が悪意として残った。

・いや、浅はかさというよりも意図、とか企てみたいなものか。「こうしてやろう」みたいなエゴ的なものを指してるのかも。

・それで、眞人が選んだ結末はというとうっすら嫌いな現実で生きることだった。「悪意のない石にはさわれない」と言っていたのは悪意のある自分には分相応な居場所があるから。

 

・テーマを自分なりに分析してみたのがこんな感じだった。理屈で考えすぎていまいち感情が追いついてない。

・書いてみて思ったけど、なんか違う気がする。ほとんど自分の中に既にあったものばかりで、そんなことないだろう。

・これが結論としたら新鮮な感動は得られなかったのでそんなにかな…と思う。

・「君たちはどう生きるか」というタイトルはこの前提からの問いかけなのかもしれない。綺麗なところだけを掬って飲めるような世界じゃないけど、それを受け入れて、とうか受け入れるしかないから、その中でどう生きるかという話か。

・アニメーションはすごかった。大量のカエルに飲み込まれるシーンとかのキモさとか最高だった。どこかで見た「作画の良さは派手に動くことだけじゃない」というのを思い出す。動きが気持ちいい。

・朝のシーンが印象的。朝の涼しげな感じが直接伝わってきて感動した。背景の美術の綺麗さは、やっぱりジブリがすごい。

・主題歌の「地球儀」を改めて聴いた。いい曲すね…。米津玄師はすごい。思ってたこととリンクするところがあった。

・話は戻る。ラストシーンで眞人がお母さんを引き止めるシーンがあった。戻ると病院の火事であなたは死んでしまう、と。それでもお母さんは「あなたの母親になれるなんて素敵じゃない!」と言った。

・眩しすぎる…。死ぬのが嫌なわけないのに、それでも先にある希望に向かって迷いなく走り出せるのはすごいと思う。そうなりたいね…。

・いろいろ考えたけど取りこぼしている部分が多いな。理解のためにもう一回観たいと思うけど、観なさそう。

・今回に限って珍しくポップコーンを買った。絶対そんな感じの映画じゃなかったな。友達が芸術作品の気分で観てたといっていた。まさにそうだと思う。

・これは自分の発見じゃないけどこの映画では鳥のクソをちゃんと描いていた。ラストシーンの華々しい部分でも眞人たちはクソまみれになっていた。汚い部分も受け入れていくという覚悟の表れだろうか。

 

これで感想は終わる。疲れたので。ちゃんと言語化したので他の人の感想を恐れずに見に行ける。

他の感想を見てると宮崎駿の自伝的部分があるらしい。それは全く知らなかった…情報を仕入れなさすぎた。でも、本質的には合っているのかな。

感想としてはめちゃめちゃだ。めちゃめちゃだな〜と怒っている人がいたら殺してください。

悪口の言えない人間

 年末ということで、地元に帰省した。そこで大晦日から元日の夜を友達と過ごすことになった。今やsnsとかLINEでいつでも連絡をとれる時代だが、私は繋がっているだけで能動的に連絡をとることをしなかったので実に久しぶりの再会になる。そこで全然知らない分野の話についていけなくなるのは、まぁ予想はできたのだが、それよりも会話の中で悪口が出てくるスピード感に驚かされた。

 バカ、アホ、クソ、死ね…とこれよりもひどい言葉が多く飛び交った。もちろん、このほとんどはじゃれ合いだ。小中、それ以上を同じ時間を過ごした仲だからこういうことも言えるのだ。自分も含めて。

 しかし私は違った。悪口が言えなくなっているのだ。思えば高校のいつものメンバーと別の学校になってから、悪口を言うようなじゃれ合いで互いに殴り合うというスキンシップをしていなかった。その間に自分の精神はどうやら正しさに支配されてしまったようだ。

 だって、アホとか言うことは少なくとも良いことではない。行き過ぎた発言をすれば炎上必至だ。派手に燃えている人を横目に自分は正しい道を歩んでいくぞ!と生きてきたらスキンシップをリスクとしか考えられなくなってしまった。

 でもその友達は正しい道を踏み外した奴らではない。そういう発言を場所を選んですることができる人たちだ。女性をもう最高に侮辱する発言をしていたってこの場に男しかいないことを認識してのことだ。しかも彼女持ちもそこそこいるし。

 これを考えたとき、すごいな、と思った。この人たちは自分の発言の限界を場所によって使い分けているのだ。仮面を使い分けたとて中身は同じだから私にはできないことだなと思う。ここは言っていい場面、ここはダメという判断ができるのはすごい。前々から思っていた「生き賢さ」の不足を実感させられた。

 ただ、前に起きた某チェーン店の生娘シャブ漬け…の問題もこういう使い分けをして生きていたら単純なポカか誰かの裏切りかで干されてしまったという例だろう。だからこういうことは言わないのが一番で健全な笑いをとれたらそれが良い。でもこういう地元の集まりでノリに乗れるのが生き賢さだよな〜とも…

ロケットえんぴつのお尻

 会話の中で「ロケットえんぴつのお尻」という単語がで出た。

 そこですぐにペン先を頭として、その逆がお尻だろうと思い浮かべた。でも、別にペン先がお尻でもいいんじゃないか?

 ロケットえんぴつを立てたらペン先は下にくるので、人間に置き換えるとこちらがお尻ということになる。しかし、こういう場合のお尻は「機能的にメインじゃない方」というニュアンスが含まれるような気がする。それなら書くのがメインのロケットえんぴつの頭はペン先ということになる。

 それでも疑問は残る。お尻はうんちを出す場所であるので、ロケットえんぴつを補充した際に芯が同じように排泄される場所としてペン先がお尻になってしまう。

 こんなことを考えていると知らぬ間に話がだいぶ進んでしまっていた。そもそもお互いにロケットえんぴつのお尻、と聞いて直感的に同じイメージが思い浮かんでいるはずなのでここまで考えることは無駄だった。それで、困るのは自分がロケットえんぴつのお尻という言葉を使う時だ。この疑問がふと頭をよぎり、私は言い淀んでしまうかもしれない…そして、相手と同じイメージを共有できなくなるかもしれない…これは恐ろしい。

ケモ耳論争

 今日、ケモナーtwitterのトレンドに入っていた。何かと覗いてみると、ケモ耳の女の子が出ているCMに対しての「ケモナー歓喜じゃん!」というツイートが物議を醸しているようだ。この話題は既に10000回以上は擦られているので普通にスルーしようとした。しかし、よく考えてみればこれはだいぶおかしいことなんじゃないか、と気がついた。

 おかしいこと、それはケモ耳=ケモナーという認識。これは一体どこから生まれた概念なのかがわからない。ケモナーが好きなコンテンツといえば「ポケモン」という超ビッグコンテンツが思い浮かぶ。実際、ケモナーでもその勢力は大きい(と思う)し、非ケモナーからしても一番想像しやすいのではないだろうか。ポケモン本編には人型に近いポケモンはいるが、美少女+ケモ耳という組み合わせのポケモンはいない。人型でも人間との間には大きな壁がある。

 私は「ケモ耳」は「美少女」のコンテンツの方に分類されるべきじゃないかと考える。さっきも言ったように人間と人外には大きな隔たりがある。ケモ耳はあくまで人間ベースだ。それにけものフレンズが大流行したことからもケモ耳は「美少女」寄りだなというイメージが強い。

 この場で問題にしたいのは「ケモ耳をケモナーに分類しようとする人たち」だ。ケモナーからして、また、ケモ耳好きからするとこの大雑把にも程がある言いがかりには疑問を持つだろう。ケモナーにも程度の差はあるが、このツイートにはどうも曖昧なイメージで発言しているように思える。

 散々擦られたネタにそんな過剰に反応したってしょうがないだろう、というのが私の感想だがキレるほうにも理由はあって、キレられる方にもそれなりに非があるのではないか。